1.東日本大震災(2011 年 3 月 11 日)

1.はじめに

歴史を振り返ると災害は繰り返し必ずやってくる.そのため経験から学び , 有事に備える必要がある.ここでは,石巻赤十字病院での被災体験について紹介させていただきたい.

2 .発災

当時人口 22万人の石巻医療圏でその中心的役割を担っていた石巻赤十字病院は2006年5月に沿岸から内陸に移転し津波の直撃を避けることができた.本震はマグニチュード 9.0 だったが,マグニチュード 7.3 の前震が 3月9日にあり院内では対策本部を立ち上げ,これがまさに本震のシミュレーションとなった.本震での石巻市の震度は 6弱,病院は免震構造により建屋に大きな被害はなく , 発災直後に停電したが自家発電がすぐに作動した.

入院患者の安全を確認し,すぐに患者受け入れ態勢を整えた.但し,直後は外部と 音信不通で周辺の被害状況は不明,地震による外傷患者を想定したトリアージにも加 わったが救急隊も被災し陸路を絶たれ搬送活動ができず当日は近隣の住民のみが来院, 翌日からは多くの患者が押し寄せた(図1).その後,被災状況が明らかになり市内産 婦人科医院が壊滅的被害を受けたことを知り , そのほぼすべての妊婦を受け入れることになった.診察に際しトリアージは緑,産婦人科外来で災害用カルテを用いて診療 した(図2).難を逃れて病院にたどり着いても診療情報の頼みの綱である“母子健康 手帳”が流され,   もしくは解読不能なことも多く,問診を頼りに診察したことを思い出す.

ライフラインについて,発災当初水道・ガスの供給は絶たれたが,院内には 3日分の発電用重油,半日分の上水,3日分の雑用水が備蓄されていた.3日目には電気や水の供給も開始されたが,都市ガスの復旧には 1カ月を要したため,器具滅菌はオートクレーブやガス滅菌に代わり過酸化水素プラズマ滅菌のステラッドⓇ200 とフラッシュ滅菌器で対応した.

 

 

3.医療支援

当時の産婦人科常勤医は私を含め 4名で,患者の急増や避難所対応,搬送コーディネート業務など任務が多岐にわたり困惑したが,すぐに日本産科婦人科学会から救いの手が差し伸べられ医師の派遣を受けることができた.2名1組を基本に,当初は寝袋持参で外来に宿泊する自己完結型で対応していただき大変恐縮した.派遣は 3月19日を皮切りに 9月30日までの約半年間にのべ 28大学からであった.さらに,日本赤十字社本部より助産師の応援もあり発災後 3週間は産婦人科外来を 24時間体制として急患の対応にあたった.また,同時に分娩器具(ディスポーザブルキットなども含む)のサポートも受けることができ危機を乗り越えられた.

4. 震災後に分娩急増

震災前の分娩数は約 50件/月だったが,発災後1カ月間では110 件と倍増した. 院外出生は把握した範囲では避難所で 1件,自宅の隣家で 1件,救急車内で 1件,さらに院内のトイレで未受診妊婦が出産した.分娩増加は主に経腟分娩の急増によるところが大きく,帝王切開や吸引分娩は増加しなかった(図3).病床の回転率を高めるため入院日数を短縮,経腟分娩は産後3日目,帝王切開は術後4日目で退院とし,皮膚縫合は吸収糸に変更した.

 

5.妊娠分娩への影響

①弛緩出血が増加傾向

震災前の弛緩出血の割合は約 3%だったが,被災後 1カ月間は約3倍の10%になった.分娩進行が速く,また子宮収縮薬を十分に投与できなかったことが一因であると思われた.

②妊娠高血圧症候群も増加傾向

震災前の約 3%から発災後 3カ月間では約8%と 2倍以上になった.その原因はストレス,不規則な生活,インスタント食品による塩分摂取増加などが関係しているものと推測された.

6.情報の共有と妊産婦・新生児の把握

市役所も機能不全に陥り,石巻市長も当院に滞在し,自衛隊の活動拠点にもなった.

発災直後は,電話回線やインターネットが不通で,衛星回線電話が唯一の通信手段となり,本部には 3台が設置されて,すべての連絡を担った.また,連日の救護班ミーティングでは各避難所のアセスメントシートに妊産婦や新生児の有無,その状況についての記載を依頼したが避難所には妊産婦は少なかった(図4).乳幼児,妊産婦は避難所という環境になじめず,津波で 1階が浸水しても 2階で生活するなど被災した住宅にとどまっていることが多かったようだ.発災から約 1カ月が経過した頃より来院できない患者のため,自治体が作成した妊産婦リストを基に新生児科医と避難所や自宅の巡回診療を始め,産後 1カ月健診なども行った.そこで非常に有用だったのが携帯用超音波診断装置だった.診察はもちろん児の様子を実際に目にする安心は何ものにも代えがたく,大変感謝されたことを覚えている(図5)

 

妊産婦・新生児の状況に関して,女川町,南三陸町などの小規模な自治体では地区ごとのリストが作成されており所在や現況を把握しやすかったが,規模の大きい石巻市では地区ごとの把握にも時間を要し,また保健師の数も絶対的に不足して負担も重く今後の課題であると感じた.このような状況下で,情報の発信と妊産婦側からのアクセスに役立ったのがメールマガジンであった.日本プライマリーケア連合学会に 立ち上げから尽力いただき,例えば 5月12日号では使い捨て哺乳瓶,ミルクの配布, 妊産婦受け入れ情報,診療体制や診療時間などを配信した(図6)

7.震災から学んだこと

*災害時の対応を常に心にとめておく必要性:事業継続計画(BCP:business continuity plan)を事前に準備し,災害医療対応の原則(CSCATTT)を心得ることが大切である

(表1)

情報共有や支援のあり方について:以下の 3 つに分けて考えてみた.

①医療者間

現在は小児周産期リエゾン,大規模災害対策情報システム(PEACE)などが運用されているが,通信手段として衛星携帯電話や MCA 無線(移動通信システム)などとの併用も必要な場合があると考える.

②医療者と患者間

災害時妊産婦情報共有マニュアルの作成と活用が望まれるが地域の規模が大きくなると把握に時間を要するため,小単位で常時active な連絡網,例えばかかりつけ医と患者間の情報共有手段などを準備し,その情報を統括本部が把握できるようなシステムがあると混乱が避けられるのでないかと思う.

③支援者との情報共有

救援物資配給などの偏りが起きるため集配統括センターのような中心的な役割を果たす機能も整備されるとよいと考える.

8.おわりに

東日本大震災から 10年が経過し当時の経験を振り返りつつ今後の課題についても述べさせていただいた.災害を乗り越えるには人と人との繋がりが最も大切であることを痛感するとともに,この場を借りてお世話になった方々に感謝の意を表したい.